戦後の米国
「われわれは、新しい世界、これまでよりはるかに優れた世界を築かなければならない。それは、人間の不朽の尊厳が尊重される世界である。」
コンセンサスと変化
第2次世界大戦直後の何年間かは、米国が世界情勢を決定づける存在となった。偉大な闘いで勝利を収め、本土が戦禍を免れた米国は、国内外における使命に自信を持っていた。米国の指導者らは、多大な犠牲を払って守った民主主義制度を維持し、繁栄の恩恵をできる限り広く普及させることを望んだ。彼らにとって、そして「タイム」誌の発行人ヘンリー・ルースにとって、これは「米国の世紀」であった。
それから20年間、ほとんどの米国人は、この自信に満ちた姿勢を疑わなかった。彼らは、1945年以降はっきりと姿を現した冷戦において、強硬な姿勢を保つことの必要性を受け入れた。彼らは、政府の権限拡大を支持し、ニューディール時代に形成された初歩的な福祉国家の概要を容認した。そして、新たなレベルの富を生み出した戦後の繁栄を享受した。
しかし、徐々に、当時支配的だったこうした考え方に疑問を呈する人々も出てきた。さまざまな分野で課題が発生し、国民のコンセンサスが崩れた。1950年代に、アフリカ系米国人が、自分たちもアメリカン・ドリームを共有することを求める改革運動を開始し、後に他の少数派や女性もこれに続いた。1960年代には、政治的な活動をする学生たちが、米国の海外における行動に抗議し、特に深刻な被害をもたらしつつあったベトナム戦争に反対した。現状に挑戦する、若者の反体制文化が誕生した。さまざまな階層の米国人が、新たな社会的・政治的均衡を築こうとしていた。
冷戦の目的
冷戦は、戦後の初期における最も重要な政治的・外交的課題であった。これは、1917年のロシア革命後に発生したソビエト連邦と米国との間の長期にわたる対立に起因していた。レーニンの率いるソビエト共産党は、西側世界そして世界全体の政治秩序に取って代わる国際運動の最先鋒を自認していた。1918年に米国軍は、ロシアで反ボルシェビキ勢力を応援する連合国軍の介入に参加した。米国は1933年まで、ソ連を外交上承認しなかった。そして、その後も不信感が残っていた。しかしながら、第2次大戦で、米ソ両国は同盟し、ナチスの脅威と戦うために、相互の意見の相違に目をつぶった。
第2次大戦の終了とともに、米ソの対立が再び表面化した。米国は、自由・平等・民主主義の概念を他の諸国と共有することを望んだ。また、第1次大戦後に米国が国際政治から離脱し、経済的保護主義を採用したことが、ヨーロッパその他の地域で独裁主義の台頭につながったと考えられていたため、米国は過ちと見なされている問題から学ぼうと努めた。戦後の国際社会で、再び内紛や帝国の崩壊に直面した米国は、平和な復興を可能にする安定をもたらそうとした。米国は、大恐慌時代(1929~1940年)の記憶を呼び起こし、今回は、米国の農産物と工業製品の市場を開拓するため、および西ヨーロッパ諸国が経済復興の手段として輸出を行えるようにするため、という2つの理由で、開かれた貿易を推奨した。米国の政策策定者は� �貿易障壁を減らすことによって、国内外の経済成長が促進され、米国の友好国・同盟国も恩恵を受けると考えた。
一方、ソ連にも独自の計画があった。ロシアの歴史的な伝統である中央集権の独裁的な政治は、民主主義を強調する米国とは対照的なものであった。マルクス・レーニン主義は、戦争中は前面に出されなかったが、依然としてソ連の政策の指針となっていた。この戦争で2000万人の国民を失い、大きな被害を受けたソ連は、国家を再建すること、そしてこのような悲惨な戦争から自らを守ることを目指した。特にソ連が懸念したのは、再び西からの侵略を受けることであった。ヒトラーの侵攻を撃退した体験から、ソ連はそうした攻撃を防ぐ決意を固めていた。彼らは、東ヨーロッパに、「防衛可能な」国境と「友好的な」政権を求め、現地の人々の意志とは関係なく共産主義を拡大することによって、そうした目的を達成できると考えて いるようであった。しかしながら、米国が第2次大戦の目標のひとつとして明言していたのは、ポーランド、チェコスロバキア、およびその他の中央・東ヨーロッパ諸国の独立と自治の回復であった。
ハリー・トルーマンのリーダーシップ
米国の新大統領ハリー・S・トルーマンは、終戦の前に、フランクリン・D・ルーズベルトの後を継いで就任していた。上院議員(民主党・ミズーリ州選出)から副大統領になったトルーマンは、地味な性格で、当初は国を統治するには準備不足であると考えていた。彼は、複雑な戦後の諸課題についてルーズベルトと話し合ったことがなく、国際問題に関する経験もほとんどなかった。「私はこの仕事の器ではない」と彼は元の同僚に語った。
しかしトルーマンは、新しい課題に迅速に対応した。彼は、時に小さな問題について衝動的な対応をすることはあったが、大きな問題に対しては、慎重な検討の末に困難な決断を下す能力があることを証明した。ホワイトハウスの彼の机の上には、「The Buck Stops Here(責任は私が取る)」と書いた小さなサインが置いてあった。ソ連の対応に関するトルーマンの判断が、最終的には冷戦の初期の展開を決定することになった。
冷戦の起源
米国とソ連の間で、戦後の世界の形をめぐる意見の相違によって疑惑と不信が生まれるに従い、冷戦が進行していった。最初の、そして最も難しいテストケースが、ポーランドであった。ポーランドの東半分は、1939年にソ連に侵略され、占領されていた。ソ連政府は、ポーランド政府をソ連の影響下に置くことを要求した。米国政府は、西側諸国と同様の、より独立した代議政治を望んだ。1945年2月のヤルタ会談での東ヨーロッパに関する合意は、さまざまな解釈が可能であった。その合意では、「自由で拘束されない」選挙が約束されていた。
トルーマンは、大統領就任後2週間足らずでソ連のビャチェスラフ・モロトフ外相と会談し、ポーランドの自決を断固主張し、モロトフ外相に、ヤルタ協定実施の必要性について説いた。モロトフが「私は今までの人生でそのような言われ方をしたことはない」と抗議をすると、トルーマンは、「合意したことを実行すれば、そのような言われ方をしなくてすむ」と言い返した。以後、関係は悪化の一途をたどった。
第2次世界大戦の最後の数カ月間に、ソ連軍は中央・東ヨーロッパ全体を占領した。ソ連政府は、軍事力を行使して、東ヨーロッパにおける共産党の活動を支援し、民主主義政党をつぶそうとした。東ヨーロッパ諸国は次々と共産党政権になっていった。このプロセスは、1948年のチェコスロバキアにおける衝撃的なクーデターによって完了した。
初期の冷戦は、公式声明によって形作られていった。1946年に、スターリンは、「現行の資本主義的な世界経済の展開の下では」国際平和の実現は不可能である、と宣言した。ウィンストン・チャーチル元英国首相は、ミズーリ州フルトン市を訪れ、演壇に座っているトルーマン大統領の前で、「バルト海のシュテッチンからアドリア海のトリエステまで、大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた」という劇的な演説をした。英国と米国は、ソ連の脅威に対抗するために協力しなければならない、と彼は宣言した。
封じ込め
ソ連を封じ込めることが、第2次大戦後の米国の政策となった。在モスクワ米国大使館の高官であったジョージ・ケナンは、1946年に国務省へ送った「長文電報」で、この新たなアプローチを説明した。また彼は、有力誌「フォーリン・アフェアーズ」に「X」という匿名で分析記事を書いた。ケナンは、従来ロシアが常に不安感を持っていたことを指摘し、ソビエト連邦はいかなる状況下でもその姿勢を軟化させることはない、と主張した。ケナンは、ソ連政府は「米国との間に永続的な暫定協定はあり得ず、われわれの社会の内的な調和を乱すことが望ましくかつ必要である、という熱狂的な信念を抱いている」と書いた。権力を拡大しようとするソ連政府の圧力を、「ロシアの拡張的な傾向を断固として、油断なく封じ込めること」 によって阻止しなければならなかった。
封じ込めの原則が適用された最初の重要なケースは、中東と地中海沿岸東部地域であった。第2次大戦中にソ連はイランの北半分を占領していたが、1946年初めに米国は、ソ連がイランから全面撤退することを要求し、ソ連はこれを実行した。同年夏、ソ連は黒海と地中海の間のトルコ海峡を支配しようとする要求を、トルコに突きつけたが、米国はあからさまにトルコを支援した。1947年初めに、英国は、もはやギリシャ政府を強力な共産党反乱分子から守るための資金がない、と米国に伝え、これによって、米国の政策が具体的な形をとった。
お金は私たちを行います
トルーマンは連邦議会での演説で、「武装した少数派あるいは外部からの圧力による征服の試みに抵抗している自由な国民を支援することが米国の政策でなければならない、と私は信じている」と、強い調子で語った。ジャーナリストはこれを「トルーマン・ドクトリン」と呼んだ。トルーマン大統領は連邦議会に対して、4億ドルの経済・軍事援助を要請した。その対象は主としてギリシャであったが、一部はトルコへの援助であった。第2次大戦前の干渉主義者と孤立主義者の論争を彷彿とさせる感情的な討論の末に、援助資金が確保された。
後に左派から、トルーマンは封じ込め政策に対する米国民の支持をかき立てるために、米国に対するソ連の脅威を誇張した、という批判が出た。そして、彼の言葉が、全米にヒステリックな反共産主義の波を広げたとされた。それは事実かもしれない。しかしながら、こうした批判は、もし米国が異議を唱えず、ギリシャ、トルコ、その他の諸国がソ連の圏内に入っていた場合に起きていたであろう反動を無視している、という意見もあった。
また、封じ込め政策では、戦争で荒廃した西ヨーロッパに対する多額の経済援助が要求された。西ヨーロッパの多くの諸国が経済的・政治的に不安定な状態にある中で、ソ連政府の指導する各地の共産党が、ナチスに抵抗した戦時の実績を利用して権力を握ることを、米国は恐れた。「医師たちが相談をしている間に患者の容体が悪化している」とジョージ・C・マーシャル国務長官は述べた。1947年半ばに、マーシャル長官は、問題を抱えたヨーロッパ諸国に対して、「国家あるいは主義と戦うのではなく、飢餓、貧困、絶望、そして混乱と戦う」プログラムを作成するよう要請した。
ソ連は第1回企画会議に出席したが、経済データを提供したり、援助金の支出に関して西側の支配を受けたりすることを嫌って、脱退した。残る16カ国で、最終的には4年間で170億ドルの援助計画を作成した。1948年初めに連邦議会は、西ヨーロッパの経済復興を支援することになる「マーシャル・プラン」への資金提供を可決した。マーシャル・プランは、米国史上最も成功した外交政策のひとつとされている。
戦後のドイツには特殊な問題があった。ドイツは、米国、ソ連、英国、およびフランスの各占領地域に分割されており、旧首都のベルリンが、ソ連の占領地域の中心近くにあった(ベルリン自体が4つの地域に分割されていた)。西側諸国が、各地域を統合した連邦国家を作る意図を発表すると、スターリンはこれに対抗する行動をとった。1948年6月24日、ソ連軍がベルリンを封鎖し、西側からの道路と鉄道をすべて遮断した。
米国の指導者らは、ベルリンを失うことはドイツを失うことにつながり、最終的にはヨーロッパ全体が失われるのではないかと恐れた。そこで、連合諸国は空軍の飛行機でベルリンへ物資を運んだ。これは「ベルリン大空輸」と呼ばれ、西側の意志を見せつけることに成功した。米国、フランス、および英国の航空機が、食料や石炭など225万トン近くを輸送した。231日間で27万7264便の輸送が行われた後に、スターリンは封鎖を解除した。
そのころには、ソ連による東ヨーロッパの支配、特にチェコスロバキアのクーデターが、西ヨーロッパの人々を警戒させていた。その結果として、ヨーロッパの主導の下で、経済的な封じ込めを補完する軍事同盟が築かれることになった。ノルウェーの歴史家ゲイル・ルンデスタットは、これを「招かれた帝国」と呼んだ。1949年に、米国と他の11カ国が、北大西洋条約機構(NATO)を設立した。この条約の下では、加盟国のうち1カ国が攻撃されれば、すべての加盟国に対する攻撃と見なし、適切な軍事力をもって対抗する。NATOは、米国史上初めての、西半球以外の勢力との平和時における「絡み合う同盟(entangling alliance)」であった。
その翌年、米国は、防衛の目的を明確に定義した。国家安全保障会議(NSC)――大統領、閣僚、およびその他の行政府関係者が国家安全保障および国際問題を検討する場――が、米国の外交および防衛政策の全面的な見直しを行った。その結果作成された「NSC-68」と呼ばれる文書は、米国の安全保障政策の新たな方向を示すものであった。この文書は、「ソビエト連邦は、可能な限りすべての国家の政府を支配しようとする狂信的な活動に従事している」との前提に基づき、米国が、世界中どこでもソ連による侵略の脅威があると思われる地域で同盟国を援助することを確約した。トルーマン大統領は、NSC-68の承認をためらっていたが、朝鮮戦争が始まった後、ようやくこれを承認した。その後米国の防衛支出は大幅に増加した。
アジアと中東における冷戦
米国は、ヨーロッパにおける共産主義思想の拡大を防ごうとする一方で、他の地域における課題にも対応していた。中国では、毛沢東と中国共産党の発展が、米国民の懸念の対象となった。第2次世界大戦中、中国では、蒋介石の国民党政府と中国共産党が、日本と戦う一方で、内戦を続けていた。蒋介石は第2次大戦で米国と同盟を結んだが、彼の政府は非効率的であり腐敗していた。米国の政策策定者は、蒋介石の政権を救う望みは薄いと判断し、ヨーロッパの方がはるかに重要であると考えた。米国の援助はほとんどがヨーロッパへ向かい、中国では1949年に毛沢東が実権を握った。蒋介石の政府は台湾へ逃れた。中国の新しい指導者となった毛沢東は、「帝国主義者」米国に対抗してソビエト連邦を支援する、と発表した。少なく ともアジアでは、共産主義がとめどなく広がりつつあるように見えた。
朝鮮戦争により、米国と中国の軍事衝突が発生した。米国とソ連は、第2次世界大戦後、日本から解放した朝鮮を、38度線で二分した。当初は軍事的な便宜のために行われた分割であったが、この2つの大国がそれぞれの占領地域に政府を樹立し、占領を終えてからも支援を続けたため、38度線は時と共に固定化されるようになった。
1950年6月、北朝鮮の指導者、金日成は、ソ連と協議しその同意を得た上で、ソ連の供給を受けた軍隊を、38度線を越えて南へ侵攻させ、ソウルを侵略した。トルーマン大統領は、北朝鮮を、世界的な闘争におけるソ連の手先であると見なし、米軍を待機させ、第2次世界大戦の英雄ダグラス・マッカーサー将軍を韓国に派遣した。一方で、米国は、北朝鮮を侵略者として名指す国連決議の採択に成功した。(ソ連は、安全保障理事会の一員として、決議に対する拒否権を行使できたはずであったが、国連が中国の毛沢東新政権を加盟させなかったことに抗議して、国連をボイコットしていた。)
朝鮮戦争は、双方にとって一進一退が続いた。米国・韓国軍は当初、はるかに南の釜山近くまで後退させられたが、ソウル市の仁川港における大胆な海からの上陸作戦によって北朝鮮軍を後退させ、朝鮮半島全体を占領するかに見えた。しかし11月に中国が参戦し、鴨緑江を越えて大量の軍隊を送り込んだ。主として米軍から成る国連軍は、激戦の末、再び後退した。マシュー・B・リッジウェー司令官の下で、国連軍は、拡張しすぎた中国軍を阻止し、戦闘を続けながら徐々に38度線まで前進していった。一方、マッカーサーは、トルーマンの権限に反抗して、中国爆撃と蒋介石の軍隊による中国本土侵攻に対する国民の支持を取り付けようとした。1951年4月、トルーマンはマッカーサーを解任し、リッジウェーを後任とした。
冷戦は、大きな賭けであった。ヨーロッパを優先事項としていた米国政府は、朝鮮戦争への増兵を行わないことを決め、戦争前の状況を受け入れようとしていた。その結果、支援の自制の必要性を理解できなかった米国民の間に不満が高まった。トルーマン大統領の支持率は24%に急落した。これは、世論調査会社が大統領支持率を調査するようになってから、最も低い支持率であった。1951年7月、停戦協議が始まった。1953年7月、トルーマンの後を継いで大統領となったドワイト・アイゼンハワーの任期中に、ようやく停戦協定が合意された。
冷戦の摩擦は中東にも現れた。石油供給地域としての中東の戦略的な重要性が、1946年にソ連をイランから撤退させる原因となった。しかし、その2年後に、米国は、イスラエルの建国宣言の15分後に、この新国家を承認した。これは、トルーマンが、マーシャル国務長官と国務省の強い反対を抑えて決定したことであった。その結果として、イスラエルとの関係を維持する一方で、強硬な反イスラエルのアラブ産油国と良好な関係を保つにはどうすればよいかというジレンマが続くことになった。
アイゼンハワーと冷戦
1953年に、ドワイト・D・アイゼンハワーが、20年ぶりの共和党大統領となった。職業政治家というより戦争の英雄であったアイゼンハワーには、自然で庶民的な雰囲気があり、国民に広く人気があった。「アイク」の愛称で親しまれ、「I like Ike」が選挙運動のスローガンとなった。第2次世界大戦で西ヨーロッパ連合軍総司令官を務めたアイゼンハワーは、その後、陸軍参謀長、コロンビア大学学長、そしてNATO軍最高司令官を歴任した後、共和党から大統領選に立候補した。人をまとめる技術に優れたアイゼンハワーは、優秀なスポークスマンとして、また政策策定の細かい実務にはあまり関わらない行政管理者としての役割を果たした。
多くのオイルがよくブッシュ大統領は、自身のない方法
米国の外交政策に対するアイゼンハワーの考え方は、細部は異なるもののトルーマンの基本的な考え方と同じであった。アイゼンハワーも、共産主義を、世界の覇権を求めて戦う巨大な勢力と見なしていた。彼は、最初の就任演説で、「歴史上ほとんど例のない形で、善と悪の勢力が、それぞれ集合し武装して対立している。自由と奴隷制が、そして明と暗が対抗している」と宣言した。
アイゼンハワー新大統領とジョン・フォスター・ダレス国務長官は、封じ込め政策がソ連の拡張を食い止めるには十分ではない、と主張していた。共産主義の支配下に置かれた人々を解放するには、より積極的な解放政策が必要であった。しかし、1956年にハンガリーで民主主義を求める反乱が起き、ソ連軍がこれを鎮圧したとき、米国は介入しなかった。
アイゼンハワーは、共産主義封じ込めに深く関与する基本的姿勢を継続し、そのために核の盾に対する米国の依存度を高めた。米国は、世界で初めて原子爆弾を製造した。1950年に、トルーマン大統領が、より強力な新しい水素爆弾の開発を承認していた。 アイゼンハワーは、防衛支出増加の抑制がきかなくなることを恐れて、従来兵器の大規模な増強というトルーマンのNSC-68の政策を変更した。アイゼンハワー政権は、ダレス長官の言う「大量報復」を戦略の基本とし、米国またはその重要な国益が攻撃されたならば、米国は核兵器を使用するという意志を示した。
しかしながら実際には、核兵器使用という選択肢は、極めて重大な攻撃に対してしか使うことのできないものであった。共産主義の真の脅威は、概して周辺的な地域で発生していた。1954年にベトナム共産軍がインドシナ半島からフランスを追放したとき、アイゼンハワーはインドシナにおける核兵器使用を拒否した。1956年には、エジプトがスエズ運河を国有化したため、英国とフランスの軍隊がエジプトを攻撃し、イスラエルがエジプトのシナイ半島を侵略した。アイゼンハワー大統領は、この3カ国に、エジプトから撤退するよう強い圧力をかけた。しかし、共産中国は、核の脅威を真剣に受け止めていたかもしれない。中国は、台湾攻撃を自制しただけでなく、国民政府が所有する中国本土沖の小さな列島を占領することも控えた� �また、核の脅威が、ソ連によるベルリン占領を抑止した可能性もある。ベルリンは、アイゼンハワーの任期の最後の2年間に、悪化の一途をたどる問題として再浮上することになる。
国内の冷戦
冷戦は、米国の外交政策を決定しただけでなく、国内問題にも多大な影響を及ぼした。米国民は長い間、過激な破壊行為を恐れてきた。こうした恐怖は、時には誇張され、普通なら受け容れがたい政治的制約の正当化に利用されることもあったが、共産党の規律に従う人々、そしてその大勢のシンパが、政治的に米国ではなく国際共産主義運動に、特にソ連政府に忠誠を示していることも事実であった。1919年から1920年にかけての「赤の恐怖」の時代に、米国政府は、米国社会に対する脅威と見なされるものを排除しようとした。第2次大戦後、政府は米国内の共産主義と熾烈な戦いを始めた。外国での出来事、スパイ事件、そして政治的駆け引きが、反共産主義ヒステリーを生んだ。
共和党が1946年の議会中間選挙で勝利を収め、破壊活動の調査を開始しようとすると、トルーマン大統領は連邦政府職員忠誠審査令を施行した。公務員の大半は、この命令による影響をほとんど受けなかったが、数百人が解雇され、中には不公正な解雇もあった。
1947年に、下院非米活動調査委員会は、共産主義思想が娯楽映画に反映されているかどうかを調べるために、映画産業を調査した。ひそかに共産党員となっていた一部の脚本家が証言を拒否し、議会侮辱罪で投獄された。その後、映画会社は、多少とも過去に疑問のある者を雇わなくなった。
1948年に、元ソ連情報員のホイテカー・チェンバーズが、ヤルタ会談でルーズベルトの顧問を務めたアルジャー・ヒス元国務次官補が共産党のスパイであると告発した。ヒスは、これを否定したが、1950年に偽証罪で有罪となった。その後明らかになった証拠で、彼が事実スパイであったことが証明されている。
1949年に、ソビエト連邦が原爆実験を行って、米国民に衝撃を与えた。1950年には、原爆開発に関する資料をソ連に提供した英米のスパイ網を、政府が発見した。その工作員のうち、ジュリアス・ローゼンバーグと妻エセルの2人が死刑の判決を受けた。J・ハワード・マグラス司法長官は、米国人共産主義者が大勢おり、その一人一人が「社会に死をもたらす細菌を抱えている」と述べた。
最も精力的に共産主義と戦ったのは、ウィスコンシン州選出の共和党上院議員ジョセフ・R・マッカーシーであった。彼は1950年に、国務省内にいる既知の共産主義者205人のリストを持っていると発表して、全米の注目を集めた。その後マッカーシーは、この数字を何度か変更し、告発の内容を証明することもできなかったが、彼の活動は国民の共感を得た。
1952年に共和党が上院の多数党となったため、マッカーシーは権力を握った。彼は、上院の委員長として、反共産主義運動を推進する場を得た。新聞やテレビの活発な報道を利用し、彼は引き続き、アイゼンハワー政権の中堅幹部による背信行為を探った。マッカーシーは、汚いが必要な仕事をするタフガイの役割を楽しみ、共産主義者と推定される人々を精力的に追求した。
マッカーシーは、アシスタントの一人が徴兵されたときに、米国陸軍に挑戦するという行き過ぎを犯した。また、テレビによって、公聴会の様子が何百万もの家庭に放送され、多くの米国民がマッカーシーの非情な戦術を初めて目にし、国民の支持が弱まり始めた。トルーマン政権時代に、マッカーシーを、民主党政権に対抗するために有用な存在と見なしていた共和党が、彼を邪魔な存在と考えるようになった。最終的に上院はマッカーシーの行為を糾弾した。
マッカーシーは、多くの面で、冷戦時代の米国内の行き過ぎを代表する存在であった。米国民が彼から離れていくに従い、国内外における共産主義の脅威ははなはだしく誇張されていたと考える人々が多くなっていった。1960年代を迎えて、米国では、特に知識人や評論家の間で、反共産主義に疑念を抱く意見が高まっていった。
戦後の経済:1945~1960年
第2次世界大戦後の15年間に、米国は驚異的な経済成長を遂げ、世界で最も豊かな国としての地位を固めた。米国が生産するすべての製品・サービスの価値を測定する国民総生産(GNP)は、1940年にはおよそ2000億ドルであったが、1950年には3000億ドル、そして1960年には5000億ドル以上へと大きく成長した。自らを中流階級と考える米国民がますます増えていった。
こうした成長の原因はいくつかあった。成長のきっかけとなったのは、第2次大戦のための大規模な公共支出が経済を刺激したことであった。成長の維持を支えたのは、中流階級による2つの基本的なニーズであった。1946年から1955年までの間に、自動車生産台数は毎年4倍に増えていった。そして、復員軍人のための低金利住宅ローンが一因となって住宅ブームが起き、経済拡張を推進した。また、冷戦の緊張が高まるに従って防衛支出が増加したことも、経済成長の一要因であった。
1945年以降、米国の大手企業はさらに規模を拡大していった。 その前にも、1890年代および1920年代に、企業合併の増加が見られたが、1950年代に再び合併の波が押し寄せた。ファーストフード・レストランのマクドナルドのようなフランチャイズ制度によって、小規模な起業家が、大規模で効率的な事業の一部となることができた。また米国の大手企業が、労働コストの低い海外で事業を経営するようになった。
米国の産業の変化に伴い、労働者の生活も変化した。製品を作る労働者が減り、サービスを提供する労働者が増えた。1956年には、すでに従業員の過半数が、管理職、教員、販売員、事務職などのホワイトカラー労働者であった。 年収を保証し、長期雇用契約その他の従業員福利制度を提供する企業もあった。こうした変化の下で、戦闘的な労働組合活動が弱まり、階級差がある程度薄れ始めた。
農民は、少なくとも小規模農家では、厳しい状況に直面した。生産性の向上が農業の統合につながり、農業が大事業になっていった。家族経営の農家の間では、離農する者が増えていった。
移動したのは農民ばかりではなかった。米国西部と南西部の成長が加速し、この傾向は20世紀末まで続いた。テキサス州ヒューストン、フロリダ州マイアミ、ニューメキシコ州アルバカーキ、アリゾナ州フェニックスなどのサンベルト地帯の都市は急速に拡張した。カリフォルニア州ロサンゼルスは、ペンシルバニア州フィラデルフィアを抜いて全米第3位の都市となり、さらに、中西部の大都市シカゴをも抜いた。1970年の国勢調査では、カリフォルニア州がニューヨーク州を抜いて、全米で最も人口の多い州となった。2000年までには、テキサス州がニューヨーク州を抜いて第2位となっていた。
グレートオーストラリアうつ病
さらに重要な意味を持つ移動のパターンとして、米国人は都心部から新しい郊外へと移動していった。彼らは郊外に、戦後のベビーブームが生んだ大きな家族が暮らせる手ごろな価格の家を求めた。ウィリアム・J・レビットのような住宅開発業者が、大量生産技術を使って、どれも同じような住宅の集まった新しいコミュニティを建設した。レビットが建てた住宅は、一部を工場で組み立てたプレハブ住宅であり、高級なものではなかったが、この工法によってコストが削減され、大勢の人々がアメリカン・ドリームのひとつを所有することができるようになった。
郊外が発展するにつれて、事業も新しい地域へ進出していった。さまざまな店舗の入った大規模なショッピング・センターが、消費者の購買パターンを変えた。このようなショッピング・センターの数は、第2次大戦末にはわずか8カ所であったが、1960年には3840 カ所に増えていた。便利な駐車場を備え、夜間も営業しているこうしたショッピング・センターの登場によって、消費者は買い物のために都心部へ行く必要がなくなった。その結果、かつてはにぎわっていた都心部の「空洞化」という残念な副産物がもたらされた。
新しい高速道路によって、郊外とそのショッピング・センターへの交通が便利になった。1956年の高速道路法は、米国史上最高の公共事業支出となる260億ドルをかけて、6万4000キロメートル以上のアクセス制限州際高速道路を建設し、全米各地をつなぐことを定めたものであった。
テレビも、社会的・経済的パターンに強力な影響を及ぼした。テレビは1930年代に開発されていたが、広く販売されるようになったのは戦後になってからであった。1946年には、全米のテレビ普及台数は1万7000台未満であった。しかし3年後には、毎月25万台のテレビが購入されており、1960年までには、全米の家庭の4分の3が、少なくとも1台のテレビを所有していた。60年代半ばには、平均的な家庭のテレビ視聴時間は、1日4~5時間となっていた。人気子ども番組には、「ハウディ・ドゥーディ・タイム」、「ミッキー・マウス・クラブ」などがあった。大人には、「アイ・ラブ・ルーシー」、「パパは何でも知っている」などの連続ホームコメディーが好まれた。そしてあらゆる年齢層の米国民を対象に、洗練されたコマーシャ� �が作られ、幸せな生活のために必要だとされる製品を宣伝した。フェアディール
「フェアディール」とは、ハリー・トルーマン大統領の国内政策に付けられた名称である。トルーマンは、ルーズベルト大統領のニューディール政策に基づき、連邦政府が経済的な機会と社会の安定を保証すべきであると考えた。彼は、政府の役割を縮小しようとする議員の激しい反対に遭い、目的達成のために苦労しなければならなかった。
戦争直後のトルーマンの再優先事項は、平和時の経済への移行であった。兵士たちは一刻も早く帰国することを望んだが、帰国後は、住宅と雇用をめぐる競争に直面した。終戦の前に可決されたGI法(復員兵援護法)は、軍人に、保証付き住宅ローン、および職業訓練や大学教育の学資援助などを提供して、民間人としての生活に戻る過程を援助した。
より深刻な問題は、雇用不安であった。軍需生産が停止され、多くの労働者が失業した。長い間延期されていた昇給を求める労働者もいた。1946年には、米国史上最大の460万人の労働者がストライキに参加した。彼らは、自動車、鉄鋼、および電気の各産業に要求を突きつけた。ストライキが鉄道および瀝青炭の炭鉱にまで及ぶと、トルーマンは、労働組合の行き過ぎを止めるために介入したが、これによって多くの労働者の反感を買うことになった。
トルーマン大統領は、差し迫った問題に対処する一方で、より広範な行動計画も提案した。終戦から1週間以内に、彼は連邦議会に21カ条計画を提出した。これは、不公正な雇用慣行からの保護、最低賃金の引き上げ、失業手当の引き上げ、および住宅資金援助などを提供するものであった。その後数カ月間に、トルーマンは、医療保険と原子力エネルギー法案に関する提案も追加した。しかし、こうした散漫なアプローチは、トルーマンの真の優先事項が何であるのかをわかりにくくした。
共和党は素早く攻撃をした。1946年の連邦議会選挙では、「Had enough?(もうたくさんではないか)」 という共和党のスローガンに対して、有権者は「もうたくさんだ」との答を出した。1928年以来初めて上下両院で多数党となった共和党は、ルーズベルト時代のリベラルな政治の方向を転換させることを誓った。
トルーマンは、連邦議会による支出削減や減税と闘った。1948年の大統領選で、トルーマンは再選を目指したが、世論調査によると彼の勝利の可能性はほとんどなかった。 トルーマンは、精力的な選挙運動の後に、米国政治史上最大の番狂わせを実現させ、共和党指名候補のトーマス・デューイ・ニューヨーク州知事を破った。トルーマンは、ニューディール当時の連合を復活させ、労働者、農民、およびアフリカ系米国人有権者を味方につけた。
1953年にトルーマンの任期が終了したときには、彼のフェアディール政策は、功罪相半ばする結果となっていた。彼は1948年7月に、連邦政府の雇用慣行における人種差別を禁止し、軍隊における人種隔離の停止を命令した。最低賃金が引き上げられ、社会保障制度は拡張されていた。住宅計画はある程度の成功を収めていたが、まだ多くのニーズが満たされずに残っていた。国民健康保険、教育支援措置、農業補助金改正、および公民権法案などは、連邦議会を通過することができなかった。トルーマン大統領は、最終的に最大の目標であった冷戦の課題を追求しなければならず、強い反対を受けた社会改革に対する支持を集めることは非常に困難であった。
アイゼンハワーのアプローチ
トルーマンの後を継いで大統領に就任したドワイト・アイゼンハワーは、ニューディールによって確立された政府の責任の基本的な枠組みを受け入れながらも、各種制度や支出の増加を抑えようとした。彼は、こうしたアプローチを、「ダイナミックな保守主義」あるいは「近代的共和主義」と呼び、これは「経済に関しては保守主義、人間に関してはリベラル」という意味であると説明した。これに対して、ある批評家は、アイゼンハワーの主張は、「多くの学校を建てることを強く奨励するが、資金は出さない」ということではないか、と述べた。
アイゼンハワーがまず優先したのは、長年にわたる赤字予算の均衡化であった。彼は、支出と税金を減らし、ドルの価値を維持することを目指した。共和党は、失業率上昇の危険を冒してもインフレを抑止しようとした。彼らは経済を刺激しすぎることを恐れたため、8年におよぶアイゼンハワーの任期中、米国は3度の景気後退に見舞われたが、いずれもあまり深刻なものではなかった。
そのほかには、アイゼンハワー政権は、海底油田の管理権を連邦政府から州政府へ委譲した。また、民主党が着手していた電力の公営化に代わって、民間の電力開発を奨励した。アイゼンハワー政権の方針は、概して企業に有利なものであった。トルーマンに比べると、アイゼンハワーの国内政策はあまり大規模なものではなかった。アイゼンハワーが推進した法案は、農業補助金の削減、あるいは労働組合に対する緩やかな制限など、ニューディール政策を多少縮小するものであった。彼は、どちらの方向にも抜本的な改革を推進することを避けたが、これは全体的に繁栄した1950年代のムードに沿った方針であった。アイゼンハワーは、任期終了まで就任当時の人気を維持した数少ない大統領の一人となった。
1950年代の文化
1950年代には、多くの文化評論家が、米国社会に均一性が広がっている、と論じた。彼らは、画一性は個性がなくつまらないと主張した。第2次世界大戦中は、男女の雇用パターンが否応なく変わったが、戦争が終わると、再び元の伝統的な役割分担が容認された。男性は一家の大黒柱となることを当然と考え、女性は、たとえ仕事を持っていても、家庭を守ることが本分であると考えた。社会学者のデービッド・リースマンは、著書「孤独な群衆」で、この新しい社会は、画一性そして安定性を特徴とする「他者志向」の社会である、と述べて、大きな影響を与えた。テレビは、まだ番組の選択肢が限られており、一般に正しいと認められている社会的パターンに基づく共通の体験を、老若を問わず全視聴者に提供して、文化の均一化に 貢献した。
しかし、この一見面白みのない米国社会の表面下で、反抗精神に駆り立てられている重要な一団がいた。「ビート世代」と呼ばれる作家たちは、社会的な因習に反抗し、一般文化に衝撃を与えようとした。 彼らは、自発性と精神性を強調し、理性より直観を重視し、制度化された西洋の宗教より東洋の神秘主義を好んだ。
ビート世代の文学は、彼らの疎外感と、自己実現の探究を表現していた。ジャック・ケルアックは、ベストセラーとなった小説「路上」を、長さ75メートルの巻紙にタイプした。この小説は、従来の句読点や文節の構造を無視し、自由な生活の可能性を賛美した。詩人のアレン・ギンズバーグも、近代の機械化文明を厳しく批判した詩「吠える」で、同様の悪名をはせた。警察は、この詩が猥褻であるとして、出版された詩集を押収したが、ギンズバーグは裁判で無罪を勝ち取った。
ミュージシャンや芸術家も反抗した。テネシー州出身の歌手エルビス・プレスリーは、アフリカ系米国人の官能的でビートのきいた音楽を普及させた白人ミュージシャンの中で、最も大きな成功を収めた。この音楽は「ロックンロール」と呼ばれるようになった。当初、プレスリーのダックテールの髪形と腰を振る踊りは、米国の中流階級を憤慨させたが、数年後に登場した英国のローリング・ストーンズなどのバンドの奇抜な行動に比べると、プレスリーのパフォーマンスはおとなしいものであった。また1950年代には、ジャクソン・ポロックをはじめとする画家が、イーゼルを捨てて、巨大なカンバスを床に敷き、絵具、砂、その他の材料をしたたらせて奔放な色彩の世界を繰り広げた。これらの芸術家や作家は、その媒体が何である にしろ、その後深い共感を伴って広がっていく1960年代の社会革命のモデルとなった。
公民権運動の発端
戦後、アフリカ系米国人のいら立ちが高まっていった。戦争中、彼らは軍隊および職場における差別に抵抗し、ある程度の成功を収めていた。何百万ものアフリカ系米国人が、職を求めて、南部の農場から北部の都市へ移住していたが、彼らがそこで直面したのは、都会のスラムの過密状態であった。戦後帰還したアフリカ系米国人兵士たちは、「二級市民」としての扱いを拒否する意志を固めていた。
ジャッキー・ロビンソンが1947 年に野球界の人種差別を乗り越えて大リーグ入りしたことは、人種問題を改めて浮き彫りにした。ブルックリン・ドジャースの一員として、彼は、対戦相手だけでなくチームメートからも嫌がらせを受けた。しかし、最初のシーズンに素晴らしい成績を上げたロビンソンは、徐々に受け容れられるようになり、それまで黒人リーグでしかプレーできなかった他のアフリカ系米国人選手のための道を切り開いた。
政府関係者、そして他の多くの米国民が、人種問題と冷戦政策との関係を認識するようになった。米国は、自由世界の指導者として、アフリカとアジアの支持を求めた。しかし、米国内の人種差別は、世界各地で友好関係を築くことを妨げた。
ハリー・トルーマンは、初期の公民権運動を支持した。彼は個人的には、社会的な平等ではなく政治的な平等を支持し、都心部におけるアフリカ系米国人の票の重要性が増していることを認識していた。1946年に南部でリンチや黒人に対する暴力が続発すると、トルーマンは、人種差別を調査する公民権委員会を任命した。この委員会が翌年発表した報告書「To Secure These Rights」は、米国社会においてアフリカ系米国人が二級市民としての地位に置かれていることを立証し、すべての国民に保証された権利を確保するためのさまざまな連邦政府措置を勧告した。
これに対してトルーマンは、10カ条から成る公民権法案を連邦議会に提出したが、南部民主党議員はその法案成立を阻止した。ストロム・サーモンド・サウスカロライナ州知事の率いる最も強硬な反対派は、トルーマン大統領に対抗するため1948年に州権党を設立した。これを受けてトルーマンは、連邦政府の雇用差別を禁止する大統領行政命令を発布し、軍隊における平等な扱いを命令し、軍隊の人種隔離を廃止するための委員会を任命した。軍隊における人種隔離は朝鮮戦争中にほぼ廃止された。
1950年代の南部のアフリカ系米国人は、依然として公民権および政治的権利をほとんど与えられていなかった。概して彼らは投票をすることができなかった。選挙登録をしようとするアフリカ系米国人は、暴力を受けたり、職や融資の信用を失ったり、土地から強制退去させられたりする危険に直面した。まだリンチが行われることもあった。ジム・クロー法(黒人差別法)により、市街電車、鉄道、ホテル、レストラン、病院、娯楽施設、および雇用における人種隔離が実施されていた。
人種差別廃止
「プレッシー対ファーガソン」事件(1896年)で最高裁は、「分離すれども平等」の方針の下でアフリカ系米国人と白人の生徒を分離することは違憲ではない、と判断したが、全米有色人種地位向上協会 (NAACP)が先頭に立って、この司法判断による原則を覆そうとした。この判決は何十年もの間、南部の生活のあらゆる側面における厳格な人種隔離を是認するために使われ、南部の諸施設はほぼすべてが不平等であった。
1954年、アイゼンハワー大統領が指名したアール・ウォーレンを長官とする最高裁が「ブラウン対教育委員会」判決を下し、プレッシー判決を覆すというアフリカ系米国人の目標が達成された。最高裁は、全員一致の評決で、「隔離された施設は本質的に不平等である」ことを宣言し、「分離すれども平等」の原則を公立学校に適用することを禁止した。1年後に最高裁は、各地の教育委員会がこの判決の実施に向けて「慎重な速度で」行動するよう命令した。
アイゼンハワーは、巨大な変化に直面する南部の状況に同情的ではあったが、南部における多大な抵抗の中でこの法律が実施されるよう努力した。1957年、アーカンソー州リトルロックで、アイゼンハワーは大きな危機に直面した。同市の白人専用の高校であったセントラル高校に、差別廃止計画によって9人の黒人生徒が入学することになったとき、オーバル・フォーバス・アーカンソー州知事は、これを阻止しようとしたのである。交渉の努力も無駄に終わり、アイゼンハワー大統領はリトルロックに連邦軍を派遣して差別廃止を実行した。
これに対しフォーバス知事は、1958学年度にリトルロックの高校をすべて閉鎖することを命令した。しかしながら連邦裁判所は翌年これらの高校の再開を命令した。緊張した雰囲気の中で授業が再開されたが、アフリカ系米国人の生徒数はごくわずかであった。こうして公立学校の差別廃止は、南部各地で緩慢かつ不安定なペースで進んでいった。
1955年に、アラバマ州モンゴメリーで、公民権運動におけるもうひとつの画期的な出来事が起きた。裁縫師でNAACPのアラバマ州支部の秘書でもあった42歳のアフリカ系米国人女性ローザ・パークスは、ある日仕事の帰りに、法律と習慣で白人専用と決められていたバスの前部座席に座った。後部座席に移るよう命じられたパークスはこれを拒否した。警察が呼ばれ、パークスは人種隔離法違反で逮捕された。このような機会を待ちかねていたアフリカ系米国人指導者らは、バスのボイコットを組織した。
アフリカ系米国人の集まるバプテスト教会の若い牧師であったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、抗議活動のスポークスマンとなった。彼は、「人々が、抑圧によって野蛮に足蹴にされることにうんざりする日がいずれはやってくる」と語った。キングは逮捕され、その後も繰り返し逮捕されることになる。また彼の自宅に爆弾が投げられ、家の前面が破損した。しかしモンゴメリーのアフリカ系米国人はボイコットを続けた。ほぼ1年後、最高裁は、学校の人種隔離と同様、バスの人種隔離も違憲であるとの判決を下し、ボイコットは終わった。こうして公民権運動は重要な勝利を収めると同時に、最も力強く、思慮深く、雄弁な指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニアを得たのであった。
アフリカ系米国人は選挙権の確保も目指した。合衆国憲法修正第15条により選挙権が保証されていたにもかかわらず、多くの州ではこの法律を回避する手段を採用していた。これらの州は、人頭税や読み書きの試験を課し、その条件をアフリカ系米国人に対しては特に厳しくして、教育のない貧しいアフリカ系米国人が投票できないようにした。
アイゼンハワー大統領は、リンドン・B・ジョンソン上院多数党院内総務と協力し、選挙権確保のための連邦議会の活動を支持した。1957年に、公民権法が、この種の法律としては82年ぶりに制定された。同法は、アフリカ系米国人が投票を拒否された場合には連邦政府が介入することを認め、差別廃止を一歩前進させた。しかし、まだ抜け穴が残っていたため、活動家の努力によって1960年公民権法が制定され、投票妨害に対する罰則が強化されたが、連邦政府職員がアフリカ系米国人の選挙登録を行う権限を認めるには至らなかった。
戦後の公民権運動は、アフリカ系米国人自身の活動によって勢いを増していった。公民権運動支持者は、最高裁や連邦議会を通じて、1960年代の米国における人種関係の劇的かつ平和的な「革命」のための基盤を築いた。
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